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<fig.1> 「ひとりの彼方へ」、そう問いかけたのは1979年の黒田喜夫である。それを新刊拙著『種差の世紀』では、「ひとりのカナ・タ/コナ・タ」といいかえて、所在・方位を意味する「タ」から「ウタ」へと足を延ばしている。ウタが聴こえるからには、「ひとり」は、ひとりのままでいることはできない。無限遠点の「タ」から、もうひとりが延々と近づいてくるから。コナ・タのひとりに、カナ・タのひとりが、いや、もしかしたらカナ・タのひとりに、コナ・タのひとりが、同じ方位を向いて。容易にはクロスすることなく。
<fig.2> 見た目に「近いひとり」は、堪えきれずに身震いする。見た目に「遠いひとり」が、キッと行く末を見据えたから。けっしてクロスすることのない、この「ふたつの所在」は、私たちの知りえない次元で、なんらかの分有=パルタージュを奏でているのかもしれない。少なくとも見た目の「遠・近」は、大いに疑ってかかるべきだろう。
<fig.3> ひとりはウタを聴いている。むしろウタが聴こえてきてやまない。もうひとりは、顎をのけぞらせて高らかにウタっている。ウタっている口はみえない。ウタっていないのかもしれない。そうであればあるほど、ひとりにはウタが聴こえてきてやまない。海の妖かし「セイレーン」は、耳に臘を詰め、身を帆柱に縛り、魔のウタを聴かぬよう機略を尽くしたオデュッセウスの姿に見とれ、ウタうことを忘れて「自縛の戦士」を見送った。どんな船乗り・戦士をも惑わしてきたセイレーンのウタは、じつはウタわれなかったのだ。
<fig.4> ウタわれなかったウタの「声なき組曲〜変奏曲」=パルティータ。
<fig.5> ウタわれなかったウタを聴いてしまった受難曲=パッショナータ。
<fig.6> ひとりは、ウタなき坑道の暗がりを往くほかはない。かつて、もうひとりの通った坑道を。容赦なき米軍空爆の戦火を浴びつつ、蕪島の特攻艇「震洋」が出撃する。なんの勝算もなく。ただウタが聴こえてくる地点を求めて。
<fig.7> 太平「洋」を「震」撼させた、あの日。あの日をこの日として、スックと立つひとり。けれどもウタが聴こえたからではない。ウタを聴いている、もうひとりの所在に気づいたからだ。
<fig.8> 「まりナヴィ・シークエンシャル」。もしくは、「ふたりであることのパルティータ」。
<fig.9> もうひとりがやっとの思いで、到来したひとりにクロスするかと思いきや、そのひとりは、意外にも右足を旋回させて、もうひとりを無残にも蹴り沈める挙に出る。その足の優美な旋回はあくまでしなやかに。あたかも、セイレーンが、海の戦士たちを地底へと舞い戻らせてしまうかのように。
<fig.10> 「ふたりであること」とは何か。少なくとも「同一性=アイデンテティ」が問われているのではない。ウタをもたない同一性が、ウタに満たされた「非- 同一性」と遭遇するという、ギリシア・ローマの吟遊詩・叙事詩に遡る「狂想曲=ラプソディ」が示唆されているわけでもない。「ひとりのカナ・タ/コナ・タ」には、ただ「ふたりであることのパルティータ」が欠かせない。それだけは確かなことである。
<fig.11> まりをナヴィとして、どうやら私たちは、ちゆきの「表情なきフィギュール」にまで達することができたようだ。「表情なき」とは無表情を意味しない。むしろプリーモ・レーヴィの「ムーゼルマン」「フスターヴァチ」を想起されたい。いささか、いいすぎた。2014年2月、久々の東京公演《nino-maii にのまい》のための、ほんのイントロダクションだと思って聞き流してほしい。
(撮影 soumon・ICANOF © molecular-theatre )
▶ 豊島重之+モレキュラーシアター《nino-maii にのまい》公演 2014年2月15日(土)19時(ソワレ)・16日(日)14時(マチネ)=2ステージともアフタートークあり/事前申込み必要(下記問合せまで) 会場:シアターX(カイ):総武線両国駅 徒歩5分 両国シティコア内 主催:モレキュラーシアター 提携公演:シアターX 助成:日本芸術文化振興基金 ▶ 演出・美術・振付構成:豊島重之 voice:大久保一恵・高沢利栄 ほか ▶ 出演:中野真李・田島千征 ほか 作曲・音響:根本忍 照明:間垣隆・豊島章伍 舞台監督:荒谷勝彦 ▶ 問合せ:molecular-theatre.jp/dblycee.jp/090-2998-0224(高沢)