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緊急予告!
東京藝大大学院〈先端芸術表現専攻〉VA講義:

吉増剛造+豊島重之『飢餓の木、言語の樹-間(き)』
2012年11月28日(水)13時半 13時 
藝大上野校地 絵画棟アートスペース2
〜吉増剛造ほか共著『飢餓の木2010』の表紙カヴァーを突破口にして〜

豊島重之(演出家・精神科医・『飢餓の木2010』編者)

(1)なんとTKG 57ときた。AKB 48 をしのぐ台北歌謡ギャル軍団の口蹄疫(こうていえき)めいた猛威のことだろうか。K-popの日本上陸・席巻(せっけん)の様相から察して、あながち荒唐無稽な話ではない。ところがTKG 57とは、長年にわたって自己処罰の病的体験に苛(さいな)まれた少女が、ゆいいつ自己肯定に転じ始めるターニングワードだったのである。少なくとも日に一度、時には二度、ひと月〜ふた月がかりで57膳、卵かけ御飯を食べるのが好き。その少女のひとことが事態を好転させるほど、高度(低成長型)消費社会(略して口蹄疫社会)への痛打でもあったからだろうか。それだって卵白アレルギーや鳥インフルエンザのH5N1型ウィルス、O-157やBSEの侵襲を辛(から)くもかいくぐってのこと。

病的体験が根こそぎ消失したわけではないが、そのひとこと以来、今も憑(つ)き物が落ちたような、とっても明るい笑顔が絶えない。もともとそういうパースナリティだったのだろう。誰にでも通用するわけではないTKG 57が、にもかかわらず、「希土類(きどるい=rare earth)」にも似た微光の未来を私たちにもたらしてくれるとしたら。

(2)希土類といえば、中国湖南省の「女書=ヌーシュー」。いつだったか、全国紙の特集欄に、巨龍中国の「バーリンホウ=1980年以後世代」抬頭のエッセイと並んで、消滅寸前の女文字「サンチャオシュー=三朝書」を散逸から救った研究家遠藤織枝の記事がひときわ目をひいた。80年代末のギャル文字から90年代末〜ゼロ年代「ケータイ・ギャル文字」への進化=頽廃(たいはい)ぶりには、さすがに呆気(あっけ)にとられたものだが、つまりは「evolution」なくして「decadence」はありえないということに。かつて「女」の字形・筆順を「くのいち」と呼び習わした消息が、ケータイ女子によって甦るとすれば、「山」も「王」も「にのいち」と読めないことはない。もともと「山の神・冬の王」とは女性のスピリチュアルを意味していたのだから。今もその「cryptogram=秘文字」化は已(や)むところを知らないけれども、万葉仮名から派生して平安期に定着した「女文字=平仮名」を駆使する私たちにとって、女文字の消滅はおよそ考えられない事態であり、この文章自体すら成り立たなくなるだろう。

(3)遠藤織枝によると18〜19世紀の「三朝書」は、離郷と苦役を強いられた嫁ぎ先・奉公先の孤独な女たちが「姉妹の結び」を交わして互いの不遇や悲嘆を、漢字=表意文字の一部を変形し、草書体に崩したような表音文字=女文字に綴(つづ)って慰藉(いしゃ)し合ったという。さながら日々の労働たる刺繍や織物の紋様といおうか、三つ編みにした「草の結び」の書体といおうか。識字率1%にも満たない時代の女性苦難の所産であり、女たちが亡くなると一緒に埋葬されたため、「三朝書」はこれまで知られることなく、今や消滅の一途(いっと)を辿(たど)っている。これらの美しい女文字を私にはとても読めそうにないが、それを編みだした「下草の姉妹たち」の美しい奥地だけは、どうにか幻視できそうな気がする。それにひきかえ、マニアックな絵文字や秘文字の開拓にいそしむ快活・恬淡(てんたん)たる中高女子たちのモバイル秘密結社。そこにだって奥地が、たとえ干涸(ひから)びた奥地ではあれ、幻視できそうなものなのだが。いやむしろ、そこにこそ「口蹄疫社会」ともいうべき「消費社会の自己決壊」が幻視されてしかるべきなのだが。

(4)世界的に屈指の詩人吉増剛造の手描きスクリプトには、自ら名付けた「裸蟲(はだかむし)メモ=nakedwritings(ネイキッドライティングス)」には、誰もが驚嘆させられる。その最たる発明のひとつが「みせけち=見せ消ち」であろう。かつての詩集『草書で書かれた、川』や、詩集+対談集『燃え上がる映画小屋』(豊島も対話者の一人)というタイトルも、その前兆であって、単に比喩ではなかった。すでに「消しゴムで書かれた」詩集を想定していたはずなのだ。一旦、書かれた箇所を、色鉛筆を盛り上げるようにして消去するのだが、その痕跡が微かに判読できることが少なくない。いやむしろ、消されることにおいて、その《消印=postmarked/cancelled》こそが、宛てどなき読者を強く誘引する。どの古語辞典にも、「消(け)つ」は、平安期に「消(け)す」の漢文脈に対して用いられた「消(き)ゆ」の和文脈であり、「火を消ちたるやうにて」や「心苦しき御気色の、下にはおのづから洩りつつ見ゆるを、事なく消ち給へるも」といった源氏物語の一節が用例として挙げられている。火の消えたような町、火の消えたような家。何度も読み返した詩集『花火の家の入り口で』。それは、2010年9月に八戸で制作・公開された「gozoCine」の新作『八戸、蟻塚、—— 章伍さんと』にも直結していた。

(5) 「消(け)つ」には、灰・燠(おき)・消し炭のごとき燃えるもの・光るものの不発と再燃、遺棄と露頭、あるいは、その存在・形象を抹消された情動が、なおも燻(くすぶ)っている。いくら鎮めようとしても、漏れ出てやまない、もがき出てやまないものが。単に「打ち消し・否認」の両価性の情動ではない。同じく源氏物語〈浮舟〉の段には、「降り乱れ汀(みぎわ)に氷る雪よりも中空にてぞわれは消(け)ぬべき」と書き消(け)ちたり、という一節もあって、さながら二度書き可能な「羊皮紙=palimpsest(パリンプセスト)」である。そのこと自体、吉増剛造の「見せ消ち」の遠い血脈(けちみゃく)と確かな結縁・結願(けちえん・けちがん)の凄まじさを裏付けている。いうまでもなく「けち」は、現在いわれている物惜しみ・貧弱・愚行・瑣末(けちたまねをする・けちをつける)を意味するのではなく、古語にいう「凶兆をはらんだ奇怪な情動」のことなのだ。とはいえ、ここに列挙された《にのいちpreview》から、いくばくか吉増さんの応答を鶴首できるものだろうか。

performed by NAKANO Mari, TANAKA Yukino, NAKANOWATARI Moe,
OHKUBO Kazue, TASHIMA Chiyuki, & others
(photo:soumon © dblycee.jp/molecular-theatre.jp  2012)